伝えたい日本の心「祓う 清める」②
お清めの塩って何? なぜ、塩なの?
お清めの塩って、そもそも何だろう

お葬式から帰ったとき、家へ入る前に身体へ塩を振る。
子どもの頃から何度となく目にしてきた、日本の習慣です。
けれど、考えてみれば不思議です。
なぜ、水ではなく塩なのでしょう。
塩には殺菌作用があるから?
もちろん塩には、食べ物を腐りにくくする働きがあります。
でも、玄関先で身体に塩を振るのは、身体を殺菌するためではありません。
そして、もうひとつ大切なことがあります。
お葬式のあとに塩で身体を清めるという習慣は、「亡くなった人が汚れている」という意味ではありません。
古くから神道では、「死」は穢れと深く結びつけて考えられてきました。
それは、亡くなった人そのものを忌み嫌うということとは違います。
死という、人間にはどうすることもできない大きな出来事に触れた自分を、一度清めて日常へ戻る。
そのための「お清め」です。
ちなみに仏教では、本来、死を穢れとは考えません。そのため現在では、清め塩を使わない葬儀もあります。
では、なぜ、その「清め」に塩が使われるのでしょう。
海に入り、もう一度生まれる

以前、私が主宰していた、暮らしの行事のルーツを紐解く歳時記講座で、高山宗東先生から、忘れられないお話を伺いました。
海は、母の胎内。
海水は、羊水。
穢れを抱えた身体で海に入り、そこから再び陸へ上がる。
それは、もう一度生まれ直すこと。
そして塩は、その海水を凝縮したものだ、と。
このお話を伺ったとき、私はとても心を動かされました。
『古事記』には、黄泉の国から戻った伊邪那岐命が、身についた穢れを祓うために水で禊をする場面が描かれています。その禊の中から次々と神々が生まれ、最後には天照大御神、月読命、須佐之男命が誕生します。
黄泉という「死」の世界から戻る。
穢れを祓う。
そして、その先に新しい神々の「誕生」がある。
ただし、『古事記』に「海は母の胎内であり、海水は羊水である」と書かれているわけではありません。ですから、高山先生から伺ったこのお話は、史実として残されているものではありません。
それでも、穢れを祓うということは、ただ身体についた汚れを洗い流すことではない。
一度それまでの自分を洗い流し、もう一度生まれ直すほどの切実さをもって、神さまの前に立とうとした古の人々の心を想像すると、私はそこに、とても日本人らしい心を感じるのです。
自分の力だけではどうにもならないことが、今よりはるかに多かった時代。
天候も、作物の実りも、病も、生も死も、人の思いどおりにはなりません。
だからこそ、自らを清め、神さまの前に立ち、祈る。
その切実さと慎みに、私は心を動かされるのです。
塩は、海を持ち帰る
そして、高山先生から伺ったもうひとつの言葉があります。
「塩は、海水を凝縮したもの」
海へ行けなくても、塩なら持ち帰ることができる。
そのお話しに、「なぜ、お清めには塩なのか」という問いが、私の中ですーっとつながりました。
もちろん、古代の人々が「塩は海を持ち帰るものだから清めに使った」と考えていた、と記された史料があるわけではありません。
けれど、
塩は、海の凝縮。
塩は、海を持ち帰るもの。
私はこの話を、これからも伝えていきたいと思っています。
史実として残されていることだけが、古の人々の心のすべてではないはずです。わからないからこそ、その営みをたどり、その向こうにあった心を想像してみる。それもまた、昔から受け継がれてきた文化を、今を生きる私たちが受け取るひとつの方法ではないでしょうか。
人は、生きているだけで、穢れを抱えている
第一話で、「穢れ」について考えました。
死や病、災い。
誰かを傷つけたり、嘘をつくこと。
そして私たちは、生きるために、動物や魚、植物、ほかの命をいただいています。
それもまた、罪、穢れ。
古の日本人は、人は生きているだけで、誰もが穢れを抱えている、と考えていた、とは言い切れないかもしれませんが、その考え方、私はとてもいいなあと思います。
自分の命だけで生きている人は、誰もいません。
だから、神さまの前に立つ前に、まず祓い、清める。
願う前に、清める。
自分は決して完全な存在ではないことを知り、他の命や、人の力を超えたものに畏れを持つ。
私は、そんな日本人の謙虚さと慎みに、とても感動するのです。
だから私は、「いただきます」を伝えたい

この世に存在するすべての命は、ほかの命に支えられながら、つながり、循環しています。
私たちも、その大きな命の循環の中にいます。
だからこそ、いただいた命を「あたりまえ」にしない。
自分だけの力で生きていると思わない。
食べる前に手を合わせて、「いただきます」と言う。
私は「いただきます」の話をするとき、この塩の話も一緒にします。
清めの塩と、食べる前の「いただきます」。
一見、別々の日本文化のように見えます。
けれど私には、その根にある心はつながっていると思っています。
自分はひとりで生きているのではない。
ほかの命をいただき、自然に支えられ、目に見えない多くのものに生かされている。
そのことを忘れないための、謙虚さと感謝。
命は、命をいただきながら、次の命へつながっていく。無駄な命など、ひとつもない。
そして器はそんな命の入れ物。だから私は「美命」と名づけたのです。
今の私たちにとって、「清める」とは
今の私たちは、穢れを祓うために海へ入ることも、毎日のように身体に塩を振ることもありません。
昔と同じ形を、そのまま繰り返す必要もないと思います。でも、その奥にあった心は、今も受け継ぐことができる。
いただいていることを忘れない。
ほかの命への感謝を忘れない。
自分だけの力で生きているのではないことを忘れない。
その心を忘れないでいられたら、神さまは、いつも私たちを見守ってくださっているのではないでしょうか。
