月のない夜を、想像してみる。
――人は、なぜ月に魅了されるのか
来週9月25日は、中秋の名月。今回は月のお話しを。
東京に暮らしていると、夜が暗いということを、ときどき忘れます。
私の実家は秋田にあります。街中ではないので、夜になってもあるのは、時々通る車のライトと、ポツポツと点在する街灯くらい。
月のない夜は、空と地面の境目さえわからなくなるほど真っ暗です。そんな夜に車を運転していると、怖いと感じることさえあります。
だからこそ、月の出ている夜には、月って、こんなに明るかったんだ! と、その光の強さに驚きます。
東京にいると忘れてしまう、夜の暗闇。
秋田に帰るたびに、電気のなかった古の人々にとって、月の光はどれほどありがたいものだっただろうと、思いを馳せることができるのです。遠いけど、秋田が実家でよかったと思う瞬間です・笑。

秋田の月、東京の月
でも私は、東京で見る月も好きです。
帰宅途中、車の中から見上げる皇居の空。都心の真ん中で、あれほど電線がなく、広い空を感じられる場所は、そう多くないように思います。
その空に、月が浮かんでいる。その向こうには、ビルの灯りがある。
秋田のような漆黒の空ではありません。夜になっても街は明るく、人も動き続けている。
そんな眠らない東京の空に浮かぶ月も、私は好きです。
夜遅くまで働く人。家路を急ぐ人。これから仕事へ向かう人。
眠らない人たちに、月が静かにエネルギーを注いでくれているようにも感じるから。
秋田の月も、東京の月も、同じ月。けれど、見る場所によって、月から受け取るものは少し違います。だから私は、どちらの月も好きなのです。

暮らしの中で、月を見つける
家で見つける月も好きです。我が家のリビングは3階にあります。
夜、キッチンで洗い物をしていて、ふと顔を上げると、テラスの向こうに月が見える。あるいは、横になった時に、天窓に月を見つけることもある。
そんなとき、私はすごくうれしくなります。
探していたわけでもないのに、「あ、月がいる」。それだけで、ちょっと幸せな気持ちになる。
実は、この家と月には、忘れられない思い出があります。
家を建て、新しい暮らしを始めて4か月ほど経った頃、夫が電車の中でスリに遭い、数百万円ものお金を失うという出来事がありました。
予算を大幅に超えてしまった家を、あそこを削り、ここを削り、なんとか完成させたばかり。それなのに、数百万円が一瞬で消えてしまった。
これは、かなりこたえました。夫婦二人、しばらく立ち直れずにいました。
そんなある日のこと。家の前の道路の向こうに、大きな月が見えました。とても美しい月でした。
その月を見ていたら、ふと思ったのです。
こんなに美しい月を見ることができる。それだけで十分じゃない。
お金は失った。でも、命を取られたわけではない。家族がいる。家もある。そして今、こんなに美しい月を見ることができる。
もう、落ち込むのはやめよう。そう思ったら、憑き物が落ちたように気持ちが軽くなったのです。
月が何かを解決してくれたわけでもなく、失ったお金が戻ってきたわけでもない。それなのに、月を見ただけで、私の中の何かが切り替わった。
月には、人の心を動かす力がある。私はあのとき、それを実感しました。
「月光町」に建てた家
この家を設計してくださった建築家から、後になって聞いたことがあります。
区画整理され、今は別の町名になっていますが、この辺りはかつて、「月光町」という名だったそうです。
私の名前には「月」があります。それもあって、家のどこかに月をモチーフにしたものを取り入れたいと思い、玄関ドアには三日月の形をしたガラスを入れました。
かつて月光町と呼ばれていた土地に家を建て、玄関には三日月があり、そこで暮らし始めて間もない頃、大きな月を見て気持ちを立て直した。
何かを予感してそうしたわけではありませんが、振り返ってみると、なんだか不思議です。
人は、なぜ月に魅了されるのだろう
そもそも、人はなぜ、これほど月に魅了されるのでしょう。
美しいから。暗闇を照らしてくれるから。毎日、少しずつ姿を変えるから。それもあると思います。
でも私はもうひとつ、月を見ると、「宇宙」を実感できるからではないか、と思うのです。
日々の暮らしの中で、宇宙の存在を意識することなど私にはほとんどありません。
東京では、星も多くは見えません。でも、月は見える。しかも、毎日形を変えた月が。
ビルの谷間からも、車の窓からも、我が家の天窓からも。
あまりにも当たり前にそこにあるけれど、月は地球の外にある天体です。
月を見上げた瞬間、ああ、私も宇宙の中にいるんだ。そんな当たり前のことを実感させてくれる。
だから人は、月に惹かれるのではないかとも思ったりします。
月は、時間もつないでいる
そして、月を見ていると、もうひとつ思うことがあります。
この月を、何千年も前の人たちも、様々な思いで見上げていた。月は、そんな人々の営みをずっと見てきたのだと思うと、宇宙と私たちをつなぎ、遠い昔の人たちと、今を生きる私たちをつないでくれる存在でもあるように思えてきます。
欠けても、また満ちる
月は、満ち欠けを繰り返します。満ちて、欠けて、見えなくなり、そしてまた現れる。
古代の人々が、そんな月の姿に生命の循環や再生を重ねて見たことも、私にはとても自然に思えます。
欠けても、また満ちる。古の人々はそこに、命の再生を重ね、願い、祈ったのではないでしょうか。
月の満ち欠けを見ていると、人は誰だって、いつも満ちているわけではない。欠けるときがあっても、また満ちていけばいい。
そう思わせてくれることも、私が月に魅了される理由のひとつかもしれません。
月に、何を願うのか
満月に向かってお財布を振ると、金運が上がる。そんなことをたまに耳にします。してみたくなる気持ちはわかりますが・笑、願いたくなる気持ちは、とてもよくわかります。
でも、その姿を想像すると、月や月夜の美しさとのギャップがありすぎて、私にはどうしても、美しい光景には見えないのです。
でも考えてみれば、古の人々も月を見上げ、豊かな実りを願いました。同じ「月へのお願い」のようにも見えます。

では、何が違うのだろう?
古の人々にとって、豊作は命そのもの。実るか、実らないかは、生きられるかどうかにかかわることでした。しかも、実りは人の力だけでは得られません。
太陽が照り、雨が降り、大地が育み、季節がめぐる。
だからこそ切実に豊作を願い実れば、その恵みを供え、感謝する。そこには、
「ください」という願いだけではなく、
「いただきました」という感謝があった。
私は、そこに大きな違いを感じます。
ただ、月を見上げる
時計もカレンダーも電気もなかった時代、月は、暗闇を照らし、その満ち欠けによって時の流れを知らせてくれる存在でもありました。
今の私たちは、月を見なくても暮らしていけます。それでも、月を見つけると、思わず空を見上げる。
秋田の漆黒の夜でも。眠らない東京の夜でも。キッチンから見えるテラスの向こうでも。
そしてほんの一瞬、日常から離れ、自分よりはるかに大きなものを感じる。
月を見る。宇宙を感じる。遠い昔を生きた人々を想う。そして、自分もその長い時間の中に生きていることを知る。
今年の十五夜、十三夜に、果たしてお月さまは顔を出してくださるでしょうか。
でも本当は、そんな特別な日でなくても、月はいつだって、そこにいます。
私は、月を見るために空を見上げるより、ふと空を見上げたら、そこに月がいた。そんな月との遭遇に、いつも心を動かされるのですが・笑。

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