第一話 願う前に、清める。
――なぜ日本人は、神さまの前で自らを清めるのか
私たちは神社へ行くと、神さまの前に立つ前に、手と口を清めます。
神事では、場を清めます。
季節の節目には、祓(はら)いを行ってきました。
そして、葬儀から戻れば塩で身を清めるという習慣もあります。
なぜ日本人は、これほどまでに「清める」ことを大切にしてきたのでしょう。
そこには、自然を畏れ、神を敬い、自らを整えてから祈るという、日本人が長く受け継いできた精神文化が見えてきます。
「清め」「禊」「塩」。
三つの入口から、日本人の心の奥にあるものを考えてみたいと思います。

私だから書ける言葉って何だろう?
書の作品をつくるようになってから、私は、ときどき考えるようになりました。
何を書こう。
美しい言葉、好きな文字、季節の言葉。
書にしたい言葉は、いくらでもあります。
でも、そうした言葉は、ほかの書家のみなさんにお任せしよう(笑)。
では、私だから書けるものは何?
そう考えたときに浮かんだのが、「日本の心」でした。
私が長く吉祥文様の器づくりや暮らしの行事のルーツを学ぶ講座の主宰を通して考えてきた、日本人が受け継いできた心。
それを言葉にして、書にしたい、それは私だから書けること!
そのひとつとして書作にしたのが、
「祓いたまえ 清めたまえ 幸(さき)わいたまえ」
という言葉です。
神社本庁では、神さまにお参りする際の唱えことばの一例として、
「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え」
という言葉を紹介しています。
祓う。
清める。
守っていただく。
そして、幸いを願う。
私は、この順番にとても惹かれます。いきなり「願う」のではない。
まず、祓う。
そして、清める。
そのうえで、神さまの前に立つ。
ここに、日本人の祈りの姿があるように思うからです。
人は、生きているだけで穢れる
「穢(けが)れ」という言葉で今の私たちがイメージするのは、なんだか怖い、という感覚では。
けれど、古代の「穢れ」は、単に「汚い」という意味ではありません。死や病、災いなど、人間の力ではどうすることもできないものも、穢れと深く結びついていました。
そして私は、その根底には、もうひとつ、
人は、生きている以上、完全に清らかではいられない。
という感覚もあったのではないかと思っています。
私たちは、生きるために、他の命をいただきます。
動物も、魚も、植物も。
他の命をいただかなければ、自分の命をつなぐことはできません。
古代の人々が、そこにどんな思いを抱いていたのか、本当のところはわかりません。
けれど、命をいただきながら生きるということに、畏れや慎みを感じていたとしても、不思議ではないように思います。
私たちは今も、誰かを傷つけている
そして、穢れということを現代の自分たちに引き寄せて考えてみると、決して遠い話ではありません。
私たちは、知らず知らずのうちに誰かを傷つけています。
嘘をつくこともある。
嫉妬することもある。
妬むこともある。
悪口を言ってしまうこともある。
自分では気づかないうちに、誰かを悲しませていることだってあります。
どれほど正しく生きようと思っても、何ひとつ間違えず、誰ひとり傷つけず、完全に清らかなまま生きることなどできません。
それなら、どうすればいいのでしょう。
私は、日本人が受け継いできた「祓い」と「清め」という行為の中に、その答えのひとつがあるように思っています。
清めるとは、「本来の自分に戻る」こと
「祓う」と「清める」。
似た言葉ですが、私はこの二つを、
祓うとは、身についた罪や穢れ、災いなどを取り除くこと。
清めるとは、それらを祓ったあと、本来の清らかな状態へ戻ること。
そんなふうに捉えています。
たとえるなら、
祓うことは、マイナスになったものを取り除くこと。
清めることは、ゼロへ戻ること。
完璧な人間になるのではありません。
ただ一度、自分を本来の場所へ戻す。
だから、また始めることができる。
「清める」という行為には、そんな人間に対するおおらかさがあるように、私は感じています。
神さまをお迎えするために、まず清める
では、なぜ日本人は、これほど「清める」ことを大切にしてきたのでしょう。
私は、その理由を考えるとき、今のような神社の社殿が整えられる以前の、はるか昔の人々の姿を想像します。
山や岩、大きな木。
古代の人々は、自然の中に神聖なものを感じ、そうした場所を依り代として神さまをお迎えし、祈りを捧げてきました。
ならば、神さまをお迎えする場所が、穢れたままでいいはずがない。
そして、神さまの前に立つ自分自身も、穢れたままでいいはずがない。
まず、場を清める。
そして、自らを清める。
そのうえで、神さまをお迎えし、祈る。
私は、「清める」という行為の根底には、そんな神さまへの深い畏敬があったのではないかと思っています。
考えてみれば、古代の人々は、今の私たちよりもずっと自然の力の前に無力でした。
雨が降らない。
作物が実らない。
嵐が来る。
疫病が流行る。
家族が病になる。
子どもが無事に生まれるかどうかもわからない。
なぜ起きるのか。どうすれば止められるのか。その答えを持たない時代です。
人の力ではどうすることもできないことに出会ったとき、
雨が降りますように。
作物が実りますように。
病が去りますように。
家族が無事でありますように。
と、祈るしかなかった。
だからこそ、神さまは、ただ「願いを叶えてくれる存在」ではなかったのでしょう。
自然や命という、人間の力をはるかに超えたものに関わる存在。
敬い、そして畏れる存在。
そんな神さまに来ていただくのです。
穢れたままでお迎えすることなどできない。
穢れた自分の願いなど聞き入れてはもらえない。
願う前に、清める。
場所を清める。自分を清める。心を整える。
そしてようやく、神さまの前に立つ。
私はそこに、日本人が神さまに向けてきた深い敬意と畏れ、そして祈ることへの慎みを見るのです。
神社は、清め続けられている場所
今でも神社へ行くと、鳥居をくぐった瞬間、空気が変わったように感じることがあります。
もちろん、そこに木々があり、土があり、場の持つ空気ということもあるでしょう。
けれど神社は、神さまが鎮座される神聖な場所。
だからこそ、古くから清浄であることが大切にされてきました。
境内は掃き清められ、祭祀が営まれ、神聖な場所として保たれてきた。
そして私たち自身も、鳥居をくぐり、手水舎(ちょうずや)で手と口を清めてから、神さまの前へ進みます。
ここでも、やはり、願う前に、清める、なのです。

願う前に、自分を整える
私たちは、神社へ行くと、
仕事がうまくいきますように。
家族が健康でありますように。
良いご縁がありますように。
と、願いごとをします。
もちろん、それでいいのだと思います。でも、その前に、一度、自分を清める。
知らず知らずのうちに身につけたものを祓い、自分を本来の場所へ戻す。
そして、神さまの前に立つ。
「清める」とは、汚れを落とすことだけではありません。
私はそれを、
生き直すための知恵
でもあるのではないかと思っています。
人は、完全に清らかなまま生きることなどできない。
だから祓う。
だから清める。
そして、また始める。
願う前に、清める。
この順番の中に、私は、日本人が長い時間をかけて受け継いできた祈りの心を見るのです。
――次回、第二話「海に入り、もう一度生まれる。」へ。
