器?食器?〜言葉に宿る日本の美意識
食卓に並ぶ茶碗や皿を、「器(うつわ)」? 「食器」? どう呼ばれますか?
美命はこれまで、一貫して「器」と呼んできました。
あらためて、「器」という言葉をじっくり味わってみると、
日本人が古くから大切にしてきた暮らしの知恵や心のかたちが浮かび上がってきます。
「器(うつわ)」の語源は、「うつ(空)」と「わ(枠)」が結びついたものとされます。
つまり「中が空で、何かを受け入れるためのもの」。
漢字の「器」もまた、四つの口(くち=容器)を並べた形から「入れ物」を表しました。
加えて、古代中国では犬を神への犠牲として供える風習があり、
その姿を描いたのが「器」の字の語源であるという説もあります。
犬好きとしてはこうして書くことさえも心が痛くなってくるのですが(苦笑)。
いずれにせよ、器は単なる道具ではなく、神聖なものを盛り、
人と神をつなぐ場を担ってきたこものということがわかります。
そこから転じて、人間の度量や才能を示す「人の器」「大器晩成」といった言葉にもつながっていきました。
一方、「食器」とは食べ物や飲み物を盛り付け、口に運ぶための道具を指します。
つまり、「食器」は「器」の中のひとつの分野にすぎません。
ところが日本では、この「食」に用いる器が特別に尊ばれてきました。
食事を「いただく」という行為が、自然や人、命への感謝を前提としているからです。
茶道を例にとれば、それがよくわかります。茶碗は単なるお茶の容れ物ではなく、
「一期一会」の精神を宿す存在として茶人はとらえています。
千利休は華美な唐物よりも、素朴で侘びを感じさせる茶碗を尊びました。
そこには、器そのものよりも、
器を介して生まれる心の交わりを重んじる姿勢に、
茶道の美と真髄を感じていたのだと思います。
華道でも、花をいける「花器」は欠かせません。
花そのものの美しさを引き立てるだけでなく、
器のかたちや余白が自然と人との対話の場をつくり出します。
器がなければ花はいけられず、また器の選び方ひとつで花の命の見え方まで変わるのです。
料理の世界も同じです。日本料理は「器も料理の一部」とされ、
季節や場に応じて器を選ぶことがもてなしの心とされています。
たとえば春には桜を描いた皿、夏にはガラスの鉢、秋には錦秋を映す陶器、冬には温かみある漆椀…。
美命なら、春は桜、牡丹、夏は百合、蓮、秋は菊、冬は椿、松・・ですね。
料理の味わいは、器とともに完成するものだという考えが根底にあるのです。
もうひとつ、日本では、「器が大きい」「器が小さい」と、
人を表現する言葉としても用いられます。それは単なる能力ではなく、
相手を受け入れる心の広さを意味します。
空であるからこそ、他者や起きたことを受け止める余白がある・・・
その発想は、まさに「器」という言葉の本質に根ざしているのだと思います。
つまり、「食器」とは実用の道具であり、
「器」とはそのさらに奥に広がる美と精神の世界を映し出すもの。
日本人は器を通して、自然や季節、人や神とのつながりを感じ、
日々の暮らしを豊かにしてきました。
食卓に置かれたひとつの器。その中に盛られるのは料理だけでなく、
感謝の心や生き方までも含まれているのです。
だから「器(うつわ)」。やはり「器」。
美命はこれからも、「器」と表現し続けていきたいと思います。

