「感謝」を考える
最近、「感謝」という言葉を見聞きにするたびに、少しだけ違和感を覚えることがあります。とても美しい言葉のはずなのに、どこか形式のような、とってつけたように響く瞬間があるのです。
もしかすると、今、「感謝」の意味は少しだけ“深さ”を失いかけているのかもしれません。そんな思いから、あらためてこの言葉の奥行きを見つめてみました。
感謝という言葉の本来の姿
「感」は、心が動くこと。内側が震えること。
「謝」は、その動きを言葉として差し出すこと。
つまり、感謝とは、心が震え、その震えをそっと手渡すこと
本来は、震えが先にあり、言葉はあとから生まれるもの。言葉が先にあり、震えが伴わないとき、私はその軽さを感じ取るのかもしれません。
自然とともに生きる感覚
日本には、自然を支配する対象ではなく、共に在る存在として感じてきた歴史があります。
雨が降ること。
作物が実ること。
無事に朝を迎えられること。
それらは決してあたりまえではありません。この感覚の中で育まれてきた感謝には、喜びとともに、静かな畏れが含まれています。
畏れを含んだ感謝は、声高ではなく、どこか控えめで、でも深さを感じます。
「縁」というまなざし
もうひとつ、日本の感性の底流にあるのが「縁」という考え方です。
出来事も出会いも、ひとつだけ、ひとりだけで生まれるものはありません。自分の成果と思っていることも、多くの人や時間や偶然の積み重ね=おかげさまの上に成り立っています。そのことに気づいたとき、感謝の思いは自然に湧き上がってきます。それは、謙虚さに近い感覚のような気がします。
「恩」との違い
日本には「恩」という言葉もあります。受けた恵みに報いる、という考え方です。
けれど、より感覚的な日本の感謝は、返すというよりも、巡らせることに近いように思います。
受け取ったものを、次へと手渡していく。循環の中に身を置く。その連なりの中に、感謝は息づいているのではないかと思うのです。
感謝の言葉に軽さを感じる時
SNS時代になって、「感謝」という言葉は時として、成功報告の締め言葉、好感度を保つための装置、印象を整える表現として使われていると感じることが多くなりました。文末に「感謝」とあっても、文の主語、中心にあるのは常に“自分”。
自分を大きく見せるために「感謝」が使われるとき、その「感謝」という言葉に軽さを感じてしまうのです。とはいえ、そこに悪意はありません。ただ、深度が薄れているのです。
深い感謝とは
では、感謝の深度とは? そこに指標があるとしたら?
- 対象が具体的であること
- 言葉が過剰でないこと
- 行動に変わっていくこと
- 誰に見られなくても成立すること
と考えると、もっとも美しい感謝は、それが感謝だと気づかれない感謝なのかもしれません。
今一度、感謝という言葉の本質、その奥にある震えに耳を傾けたいと思います。自戒を込めて。
写真は、NYのギャラリーで展示された書家デビュー作品です。命に感謝し、おかげさまに感謝する日本の心を書にしました。

Tシャツ画像は、その作品でAIさんが生成したものです。「感謝」Tシャツが欲しくなりましたが・・・Tシャツにすると、深度は薄くなってしまうでしょうか?(笑)。

